hanasinohanasi

Glenn Gould/The Complete Goldberg Variations 1955 & 1981(SONY SICC 98〜100)

グレン・グールド
J.S.バッハ : ゴルトベルク変奏曲(1981)

音楽とは何か。

独自の音楽論や表現を通じて、音楽のみならず芸術全般に多大な影響を及ぼしたアメリカの作曲家ジョン・ケージは「音楽は音である」と語った。騒音、沈黙の中から音を聴き出すこと。彼にとって音楽は、常に生活と切り離すことの出来ないものとしてあった。それは、虫の音、雨音、あるいは、砂利道を歩く靴音かもしれないし、皿洗いのたてる音なのかもしれない。それらはみなわたしたちの心持ち次第で偶然の音楽たりうるものだ。

今日もいたるところで音が生まれ、そして消えて行く。音は音としての秩序を具えて既にそこにあり、ある日、ある時、自然と聴こえてくるものだと思う。そして、その時、わたしたちの中に生じる余韻こそ音楽なのではないだろうか。

グレン・グールドによる演奏のすばらしさを、どんな言葉で言い表すことができるだろう。すべての音が、バッハという広大な大地のうえで移ろいゆく季節のように繊細に然るべき姿で息づいている。作曲家の感性を刺激するような創造性、それを顕在化させる技術。演奏を詳細に分析しようと思えばいくらでも可能だろう。事実、グールドについては現在に至るまで様々な考察が成されており、それらはわたしのような平凡な聴き手の知的好奇心を満たして余りある。けれど、わたしはそれらの一切を忘れてしまっても構わないと思う。ただただ無垢に音に耳を傾けていたい。この演奏は、ありとあらゆる意図をこえてバッハの限りない深遠を強烈に示す。わたしが感じているのは私自身の感覚のひろがりなのかもしれない。

ゴルトベルク変奏曲は、32小節からなる「アリア」と題された美しいサラバンドに始まり、アリアの各小節に割り当てられた32音からなる低音主題に基づいた30の変奏をはさんだ後、冒頭のアリアが回帰して静かに幕を閉じる。そして、音はわたしたちの中で音楽になる。まるで何かを想い出したみたいに。

終わりはまた始まりでもあるのだ。


Glenn Gould/The Complete Goldberg Variations 1955 & 1981
(SONY SICC 98〜100)
Patty Waters/Happiness Is A Thing Called Joe: Live In San Francisco 2002(DBK Works  dbk523)

パティ・ウォーターズ
ライブ・イン・サンフランシスコ 2002

ことばの微妙な陰影、色合いの変化の中で詩を読むように立ち上がってくる歌。そのコントラストの繊細さを前に息をするのも忘れてしまっている自分に気付く。なんて深く、強く、やさしい歌だろう。ことばが息を吹き込まれるようにして質感、艶かしさを持ってそれ自体生きもののように迫ってくる。この歌を支えているもの、それはある種の ”間” ではないか。

パティ・ウォーターズは立ち止まる。今にもどちらかに転んでしまいそうな危うい、即興的な趣の中で歌うというよりは語るようにして歌の姿を浮き彫りにしていく。そこに生じているのは時間的な隙間ではなく、裂け目を、音が立ち上がる前の闇の深さを感じさせるような ”間” 、前に向かって詰めていくような ”間” だ。

パティ・ウォーターズといえば60年代のESPからの2枚("Patty Sings" , "College Tour")、とりわけ1枚目のB面全体を占める "Black Is The Color Of My True Love’s Hair" の伝説的パフォーマンスをもって語られることが多い。歌の核の部分だけを捥ぎ取ってしまったかのような痛々しい歌。はじめて聴いたのは10代の終わりくらいだったと思う。それなりに妙な音楽にも親しみ、難しい顔をしてわかったような気になっていたわたしは完全にのけぞった。そんな生易しい世界ではなかったのだ。ただ空ろで、真っ暗で、怖かった。これを聴いて平然としていられる人がいるだろうか。いたとしたら心配だ。愛聴している人も違った意味で心配だけど。

彼女は前述の2枚のレコードと1枚の参加作(Marzette WattsのSavoy盤)を残して音楽の世界から忽然と姿を消してしまう。子どもの出産を機に、静かでよりよい環境を求めてのことだった。

それから30年余の歳月を経て、パティ・ウォーターズは再び歌い始めた。声は衰えを隠せない。しかしそれでも尚、彼女の歌はかつての深みを些かも失ってはいない。素晴らしいことだ。そしてここに聴かれる彼女の歌には、陽だまりのような温かさ、母性とでも形容したくなるようなやさしさがみちている。鋭敏な感性は今もかわらず、どこまでも速く、そして自由だ。


Patty Waters/Happiness Is A Thing Called Joe: Live In San Francisco 2002
(DBK Works dbk523)
Thelonious Monk/Brilliant Corners(RIVERSIDE RLP 12-226)

セロニアス・モンク
ブリリアント・コーナーズ

よく子どもと一緒にこのレコードを聴く。子どもが「モンクをかけて」とせがむからだ。

“Brilliant Corners” が流れだす。パーラリラタリラトゥララダブブブバビバビボバ♪。開始20秒にして謎度 100%、否、もはや目盛りは振り切ってしまっているといってよい。見事だ。子どもの方はと言えば「モンク5人分のおならだね。」と言って笑い転げている。ジャケットに5人のモンクがいるからだ。

さて、そんな我々にはお構いなしにレコードは回り続ける。謎は謎のままにしておくとしよう。なにせ共演者たちにとってさえ????なのだ。モンクという謎の中でモンクと同化し、それぞれの新たな局面を発見していくかのように演奏を続ける面々。モンクの足並みに迷いは無い。彼にとっては確かな道なのだ。

B面に針を落とす。相変わらず正体不明のまま突き進むモンクとその一行。“pannonica”において左右の手でそれぞれピアノとチェレスタを同時に弾き分けるという荒技を展開するモンク。謎は深まるばかりだが、聴いているうちになくてはならないものに感じてくるから不思議だ。それに応える強者たちも当然ながら素晴らしい。続く “I Surrender, Dear” はモンクのソロによるつかの間のブレイク・タイム。正統的とも云える美しい演奏。 そしてレコードはクライマックス ”Bemsha Swing”を迎える。なるほど、革命的な訳のわからなさだ。モンクをそのまま音にしたような抜群にかっこいいイントロに導かれて飛び出すストレートだけれどやはりかっこいいテーマ。煽るように繰り出されるマックス・ローチのティンパニにポール・チェンバースのベースがうねる。一部をすぽっと切り抜いたらフリージャズに聴こえなくもないモンクのピアノが通奏低音のごとく曲をまるまる包み込む合間を縫って、ロリンズ、テリー、ローチ、チェンバースとメンバー全員によるソロが連なる場面はほとんどお祭りだといってしまって差し支えない。そして、ロリンズ2回目のソロとそれを切り裂くように飛び込んでくるモンクのピアノ、「えっ、まだ途中でしょ?」というタイミングですべてを蹴散らすように唐突に回帰するテーマ。もはやセロニアス・モンクとしかいいようがない音の塊の中から音楽の喜びが溢れ出してくる。

セロニアス・モンクがジャズという歴史の中において、最も独創的で明確なコンセプトを持った音楽家のひとりであったことに異論を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、その真にオリジナルな存在であるという煌めきは、同時に彼と世界との隔たりを深め、彼の精神を蝕んでいった。それは、音楽とは何の関わりもない事柄の積み重なりだったのかもしれないけれど、彼の音楽にもゆっくりと確実に影を落としていく。

彼は人生の最後の数年間を家族とともに、パトロンであり友人でもあったニカという女性の家で過ごした。ほとんど口をきくこともなく、自分の中に迷い込むようにして。もう、ピアノに触れることすらなかったという。

新潮社から出ている “バット・ビューティフル(ジェフ・ダイヤー著 村上春樹訳)” という本にこんなエピソードが載っている。モンクについて語られた数多くの逸話の中でわたしはこの話が一番好きだ。

***近所の誰もが彼を知っていた。店に買い物に行くと、子供達が呼びかけた。よう、元気かい、モンク? どこかに行ってたの、モンク? 彼はもぐもぐと何かを言う。立ち止まって握手をしたり、あるいはただ歩道に立って身体を前後に揺すっている。そんな風に人々から声をかけられることを、彼は喜んでいた。有名になることをではなく、そういう風に自分のうちが外に延長されていくことを。***

セロニアス・モンクの音楽を聴いている時、あのはにかみ屋の子どものような笑顔の中に、わたしはいつも転ぶように駆けてくるこどものことを思い出す。


Thelonious Monk/Brilliant Corners
(RIVERSIDE RLP 12-226)
Joseph Spence/Good Morning Mr.Walker(ARHOOLIE ARHOOLIE 1061)

ジョセフ・スペンス
Good Morning Mr.Walker

近頃の路上音楽家は何故にアンプを用いるのだろう?

わたしは断固反対だ。まず、騒々しい。次に、騒々しいのである。表現に欠くことのできない轟音であれば耐えるとしよう。しかし、哀しいかな、左様な例に出会ったためしは無い。彼等はジミヘンでは無いのである。

わたしは路上音楽家が好きなのです。寒空の下、アコギ 1本でブルースを奏でている若者などを見かけると、ついつい温かい飲み物でも差し出したくなってしまう。音楽は無理矢理に聴かせるものではないのです。自分に酔うのは家の中だけにしましょう。

さて、酔うと云えば酒。酒と云えば高田渡を想い出す。日本を代表するブルースマンであった彼はステージ上で眠ってしまうことでも名を馳せたが、今回ご紹介するジョセフ・スペンスはどうにもこうにも眠りそうにない雰囲気である。酒に酔っているような体ではあるけれども、どうやら覚醒しきっているようだ。しかも、大声で歌っている。たとえ周囲が「早く寝ねーかな」と思っていたとしてもお構いなしに(あくまでもイメージです)。

ジョセフ・スペンスは1910年、カリブ海に浮かぶバハマ諸島アンドロス生まれの音楽家。その個性的なスタイルからフォーク・ギターのセロニアス・モンクなどとも呼ばれる。お店に行くとブルース・コーナーに配されてはいるが、レコードから飛び出てくる音は如何ともし難い。セロニアス・モンクは飛び抜けて個性的な音楽家であったけれど、紛れもないジャズであった。ジョセフ・スペンスはと云えば、これはどうにも困ってしまう。ジャンル分けしようにも追随者がいない、もしくは追随したくない、つまりは追随不可能な個性なのである。

何はさておきギターが凄い。古い賛美歌やバハマの伝統的旋律を用いているはずなのにこの奇想天外さはどうだろう。まず、リズム感が変わっている、と簡単にすませられないほどに変わっている。大自然にたくましく生きる動物たちの驚異的な運動能力を見せつけられたかの如き思いに打たれる瞬間の連続である。それに加えて、対位法的に変幻自在なアドリブを次から次へと織り交ぜてくるのだからたまらない。素朴なメロディーが複雑極まるものに成り果てているのだ。彼の熱狂的な信奉者であるギターの名手ライ・クーダーでさえ、初めて聴いた時にはいったい何が起こっているのかさっぱり訳が分からなかったという。

ギターの奏法にベース・ランと云うものがあるが、これがまたもの凄い。通常であればコード間の低音を滑らかにつなぐように走っていくはずが、彼の手に掛かると、蹴つまずき、ほとんど転がる石のような様相を呈してくる。足の骨に軽くひびが入っているのか、否、折れてるなこれは。それでもジョセフには、「骨がっっっ!!!」などと叫んでいる様子は微塵も無い。むしろ笑っているのだ。しかも大笑いである。そして、その延長線のようなものとしての歌がある。

基本的にユニゾンだが、音が外れまくるためユニゾンとも言えない。しかも、葉巻やパイプをくわえながらの歌唱であるので、モゴモゴ言ったり、むせかえったり、そんな自分に大笑いしたりといった悪循環が展開される。もはや歌と呼べるかどうかさえ怪しい領域にまで踏み込んでしまったようだ。こう言ってしまうと目茶苦茶な様相を呈しているかと思われるかもしれないが、お察しの通り目茶苦茶なのです。それなのに彼の歌が聴こえてくると嬉しいのはなぜだろう。南国の緩やかな風のせいだろうか。

えーっと、つまり、いろいろと書いてきましたが必聴です。


Joseph Spence/Good Morning Mr.Walker
(ARHOOLIE ARHOOLIE 1061)
Festetics Quartet & Wieland Kuijken/Grand Quintuor En Ut(ARCANA A308)

フェステティチ四重奏団 & ヴィーラント・クイケン
シューベルト : 弦楽五重奏曲ハ長調 D946

準備中


Festetics Quartet & Wieland Kuijken/Grand Quintuor En Ut
(ARCANA A308)

movie

  • 準備中

エル・スール
ビクトル・エリセ


話の話
ユーリー・ノルシュテイン


ライム・ライト
チャールズ・チャップリン


book

  • 準備中

The Americans
ロバート・フランク


樹々は緑か
吉行淳之介


other

  • 準備中



about

心の底にすとんと落ちて、いつまでも、そのままのこるもの。
そんなもの/ことがすこしでもかたちになっていれば良いなと思っています。